マチネの終わりに
昔は信じて疑わなかった。
人間には必ず“運命の相手”がいて、いつかその人と結ばれるんだって。
でも、年を重ねるうちに"運命"なんて後付けで、結局人間は愛そうと思えば誰でも愛せるし、結婚や恋愛はタイミングの問題なのではないかと思うようになった。
この物語は、付き合うとかセックスとか、結婚すらも超えた愛の話。
形にとらわれずただ好きというプラトニックな愛情を持ち続けることもあるのだということを教えてくれた。
この物語の彼と彼女は距離が離れていても心が共鳴している。音楽とか芸術みたいな言葉では伝わらないものが、2人をつなぎとめている。そんなにも波長があう2人なのに彼にはもう家庭があって彼女にも自分の仕事があって一緒になれない。
物語に登場するアランフェス協奏曲。哀愁帯びた戦慄を奏でる柔らかなクラシックギターの音色の温かみが、一層胸を苦しくさせる。お互い好きだけど、一緒になれない、その行き場のない想いってどこに行くのだろう。
どうしますか?
今までで一番好きになった人が、既婚者だったら。
一番好きな人と結ばれないってそんなの、耳を塞ぎたくなる現実だな。
サンタさんはパパだよって聞いた時と同じ感覚。
今まで自分が信じていた夢を壊されたみたい。
愛とはなんぞや
久しぶりにアウトプットする。
あなたにとって愛ってなんですか?
哲学的な疑問。
これを読むみんなの解釈を聞きたい。
LUMINEの広告にこんなのを見つけた。
「恋は奇跡。愛は意思。」
ンンン天才的、、。
愛に生き、愛に苦悩した太宰治先生に言わせると
「愛は最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思ってはいけない。」
だそうです。これが、無償の〜というやつか。
愛と恋って何が違うのだろう?
21歳22歳の我々、最近そういう話題で盛り上がることない?
ちなみに私は、
『愛は相手のため、恋は自分のため』っていう解釈が
自分の中でしっくりきている。
と言いつつも、人の心は奥が深くて幅が広いもの
愛とはこれだ!!一つの言葉で表せないものだよね。
だから、これって愛なのだろうか?と疑問に思うこともあるわけ。
最近見たNetFlixオリジナルドラマ『YOU』は、一言でいうとネットストーカーの話。
とある男が女性に一目惚れして、彼女のSNSから住所特定して上に人間関係を把握して、距離を縮めて最終的に、、、。という、サイコパスラブストーリーなんだけど、ここに出てくる男が自分大好きすぎて本当にキモい。とにかく彼女をモノにしたくて、彼女の元カレを地下室に監禁したり、彼女の友達と仲良くなったりと、もう執念が半端ない。そのエネルギー別のところで使えないものか。
執着って愛と混同しがちだけど、本質的には違うよね。
執着は、結局相手を自分の思い通りにしたいという自己愛だと私は思う。
でも当事者になってみると、今自分が相手を愛しているのではなく執着しているという事実になかなか気づけない。その妄信加減は、病気みたいなものだよね。
執着とか憧れって、少し宗教と似ているのかも。
こうであって欲しいとかこうあるべきみたいな自分の理想があって
それに誰かを当てはめる。きっとあの人はこうだ、あの人ならこうあるはずだと、自分の理想を自分の中の相手に練りこんで頭の中で幻想を作り上げる。
でもこれは、愛じゃないんだよね。難しいけど。
私もまだ愛を語るには青二才だけど、
人を愛するってとても自分に深みを与えてくれるものだということはわかる。
これからどんな人に出会うかわからないけど、愛するって自分自身もとても満たされる事だから、愛することができる人が現れただけで幸せなんだろうな。
愛の名言とかでネットサーフィンしたらこんなの見つけた、
私もI want all of youって言われたいわ。 やっぱり愛するだけじゃなくて愛されたいないつか。
“So it's not gonna be easy. It's going to be really hard; we're gonna have to work at this everyday, but I want to do that because I want you. I want all of you, forever, everyday. You and me... everyday.”
― The Notebook
万引き家族 貧困 自己肯定感
この前、『万引き家族』を見た。
早く感想を書かなくてはと思っていたのだけど、もう5日くらい時が経ってしまったのでうろ覚えだけど感想を残す。
映画館を出て一言でた言葉は
「生々しい」
だった。
作品を通して人間の弱さや汚さが、真っ直ぐに表現されている。そこには、見栄や正義に塗られた虚偽もない。境遇に負けず頑張ろう!なんてよくある美談でもなくて、登場人物は、逃げるし、騙すし、諦める。
とても人間的で生臭い。
個人的には、夫婦が自分自身に諦めているところが見ていて一番胸が苦しかった。女が刑務所で「この子は私たちじゃダメなんだよ。」と言うところや、男が「自分には何もなくて、万引きしか教えることがない」というところは、やるせない気持ちになって泣いた。
そこには希望も期待もない。
「貧乏で出来損ない」と自分自身にラベリングしてしまっているところ、そして思わざるを得ない環境で育った事実に、胸が苦しくなった。
自己肯定感の低さは人生のモチベーションを左右する。
貧困なのは必ずしもその人のせいではない。でもそういうふうに教えてくれる人は周りにいただろうか。あなたは明るく堂々と生きていく価値があるんだと、力強く背中を押してくれる人はいただろうか。
貧困の一番問題は、その人の自己肯定感を低くしてしまうことではないか。
貧困にいても、自己肯定感さえあれば希望や夢を持てる。そこから、踏ん張ることができるし、今の日本ならそういう人にもチャンスが与えられる環境が整っているはずだ。
こんな何も苦労していないような自分が偉そうなことは言えないけど。
とはいえ、日本はまだ恵まれているんだなとは思う。
この作品は、万引き、育児放棄、年金不正受給、など様々な日本の社会問題を映し出している。
監督本人も、そういう日本が抱える社会問題を描きたかったって言っていたような(記憶が正しければ)。これを見た多くの人は、豊かに見える日本にも貧困にあえぐ人がいるのか、日本も落ちぶれたなだとか思うだろう。でも私は、貧困を社会問題として警鐘を鳴らす人がいて、それを観た人に問題意識が少しでも芽生えること自体、日本が恵まれている証拠だと思う。私が留学をしていたメキシコでは、貧困は当たり前にあった。富裕層が暮らす隣の路地に、ストリートチルドレンもいることもあった。テラス席で食事をしていると物乞いされることもあった。しかし、すぐ近くにいるにも関わらず富裕層が貧困層を意識することはほとんど無い。完全に日常の風景に同化して見えない存在になっているのだ。自分たちには関係のない話だと、無意識にもそういう思っている。それを悪だとかかわいそうだとか言いたいわけではないけど、世界にはそういう国もあると考えると日本はまだ、というかだいぶ、恵まれている。この映画を見たほとんどの人が、知らなかった貧困の状況に衝撃を受け、苦しくなるのだから。
私はどうしても、同情して行動を起こすことはできないけど、そういう人間だからこそこの映画をみる価値はあったかなと思う。
見てよかった。
多分これからも記憶に残り続ける数少ない映画のうちの一つになった気がする。
『ヤれなかった記念日』
夜3時に寝て12時に起きて洗顔してまたベットに戻ってぐだぐだする。
そんな怠惰な1日は、どーしようもなくくだらなくてほんっとうにしょーもないものが見たくなる。ひらすらに堕落して、脳みそゆるゆるに、体はでろーんってしたくなる。
何も予定のない日曜日、私は板チョコを頬張りながらNetFlixを漁ってとあるドラマにたどり着いた。
その名も『やれたかも委員会』
漂うB級臭。B級に違いない。私はこれを求めていた。
いつも通り3倍速で、一気にドラマを見た。
くだらなかった。ほんっとうにくだらなかった。
くだらないけど
共感できた。
このドラマは、「ヤれたかもしれないけどヤれなかった記憶」を持つ人々が「やれたかも委員会」にやってきて、”その記憶の日はヤれたかヤれなかったか”を客観的に判断してもらうと言う1話完結の物語。
バイトの先輩の家で2人きりになったのに、初めての彼女の家で肩に寄っかかってこられたのに、カラオケボックスでキスされたのに、、。
あの時女の子がサイン出していたかもしれないのに自分はヤれなかった、そもそもあのサインはヤれたのかヤれなかったのか、どうなんだ、わからない、気になる、そんなことを何年も何年も考え続けて悩みに悩んでまた悩む。そんな経験ないだろうか?
「やれたかも委員会」に集まる人たちは誰しも、10数年前の”ヤれたかも”の記憶に未だ淡い幻想を抱いていた。
ヤったより何より、”ヤれたかも”が記憶に残る。
こうしていればどうなっていたかといくらでも妄想してしまうし、
なんども反芻してしまう
そんなもどかしさと淡いエロスを”ヤれたかも”は秘めている。
「ヤれたかも委員会」に足を運んだ30代40代の大人が、噛みしめるように自分の経験を語りだす姿を見て、”ヤれたかも”はまたこれで青春なんだと気づかされた。
人は学習をする。たくさん失敗を重ねて、いつしか”ヤれたかも”の経験は減って”ヤれた”経験ばかりになってしまうかもしれない。一歩踏み出す勇気がなかった”ヤれたかも”の経験は、大人になるにつれ、減っていくのではないであろうか。
そんな”ヤれたかも”の儚さ、希少性、尊さ、に気づかされ、私は胸がいっぱいになった。
大人だけど大人でない、未熟な今だからこそする失敗や後悔をもっと大切にしようと思った。
”できたかもしれないけどできなかった(やらなかった)記憶”は一生残る。
手に入った物は日常になってしまうが手に入らなかったものは幻想となって永遠に心の額縁にいれられるからだ。
失敗や後悔はマイナスイメージがあって、敬遠されがちだ。しかし30代40代になって振り返ると、それもまた良いの思い出なのかもしれない。
こんな私にも、強烈に記憶に残る”ヤれたかも”がある。
どうしても酸っぱさが残るけど、これもまた青春の一味だったのかな。
コンプレックスとか
世の中、コンプレックスを抱えている人は過剰な被差別意識が自分の首を絞めていることもあるなと思う節が多々ある。
この前テレビに某清純派女優Aのお姉さんがでていた。
妹の女優さんはかわいいけど、お姉さんはお世辞にもかわいいとは言えない顔面だった。その人は、楽屋で電気を消して部屋の隅でロケ弁当を食べるらしい。なぜなら、自分がブスだから。存在を消さないと周りの人に迷惑がかかる、と思うらしい。
周りからしたら、別にその人が楽屋でロケ弁を食べていたとしても日常のとりとめもない光景として、何も気に止めることなく過ごすだろう。
しかし、当の本人はブスである自分がロケ弁を食べているという光景が不快な気分を与えてしまう、と考えるのだ。共演者には、‘逆に自意識過剰になっている’と指摘されていた。
私もまさに自意識過剰だと思う。
でも私には、彼女の気持ちが痛いほどわかる。
自分もそうだったから。自分の中のコンプレックスが大きければ大きいほど、他のことを考える余裕がなくて自分に関わる全ての事象を自分のコンプレックスにつなげてしまうようになる。私はブスだからこうなったんだ、やっぱり自分はブスなんだと、自分で自分を被害者に仕立て上げて勝手に傷ついてしまうのだ。このループに入るとなかなか抜け出せない。
美醜に関わるコンプレックスだけではない、人種差別も同じことが言えると思う。
この前記事に書いた黒人の話を思い出した。
HUBで飲んでいたら、黒人がナンパしてきて軽くあしらったらどうせ俺が黒人だから突き放すんだろう、と言われた。
こちらは全くそのつもりがなかったのに本人はそのように受け取ってしまったらしいのだ。
これは自分は黒人であるという無意識のコンプレックスが彼をそのような思考に導いているのではないかと思う。
特に人種差別になると国としてのイデオロギーや負の歴史もあって、余計に人は冷静な判断力を失いがちだと思う。
とあるデータでは同じIQを持つ黒人と白人を比較したとこと、黒人の方がIQが低くても知的な職業(医師とか弁護士とか)につける確率が2倍ほど上がるらしい。
このことから分かるように。むしろ‘黒人枠’があるおかげで黒人は優遇されているくらいなのだ。
それでも企業や大学で黒人の数が圧倒的に少ないと差別だと批判を浴びてしまう。
自分が差別を受けていると受け取ってしまう。
結局コンプレックスは、自分の捉え方の問題だから、幸せになりたければ自分が変わるしかないのだ。
でもそれはすっごく大変。時間と労力がかかるのだろうな。私もまだまだ、克服しきれていない。でも絶対克服したいと思っている。早く新しい景色をみたいなと思ってる。
言葉とか文化とか
今日は友達と3人でとあるバーで飲んでいた。
そしたら黒人系アメリカ人が話しかけてきた。
盛り上がっていたところに水を差されてイラっときた私の友達は”We're talking girls' thing, so just get away”と言った。するとアメリカ人の表情が激変して、なんで俺は話がしたかっただけなのにそこまで言われなきゃいけないんだとキレ出した。
私の友達は、いやうちらはガールズトーク盛り上がってんねん勝手に話しかけてくんなおたんこなすみたいな感じで言い返し、10分くらい口論になった。
向こうの言い分としては、get awayは言い過ぎだと、あんたらが楽しく話しているところに入っていって悪かったが、そこまで突き放すことないだろ、外人相手だからか?
そもそもハブ来てんなら話しかけられて当然だろと。
こっちはこっちで、いやそんないきなり話しかけられたら気味悪がるのは普通だろと、それからこっちが外人に対して偏見を持って接していると思うこと自体偏見だからな?と。
そういう口論で盛り上がってたわけ。
まあどっちにも相互の文化の違いを受けれる余地はあったよねとかそういう話もあるけど、問題の本質は、get away がどのように受け取られるのか私の友達がよく知らないで使っていたいところにあると思う。
私の友達は、あっちに行ってと軽く言ったつもりでもネイティブからしたら近づくんじゃねえカス、レベルの突き放し度合いだったのかもしれない。
”We're talking girls' thing, so maybe later we can talk with you but not now”
くらいにしておけば問題にならなかったのかも。
私も言葉遣い慎重に選ぼうと思った。
得体のしれない外国人に対してもリスペクトを込めて接することを心がけようと思った。
でも、私の友達のいいなと思ったところは自分の考えは強く持ち続けていたところ。
確かに言い過ぎではあったかもしれない、でも日本ではいきなり話しかけてこられるのは怖いんだ、あなたたちが自分たちを理解してほしいというのならこっちの事情も理解してほしいと言い続けていた。
私だったら英語で議論とか面倒だから、確かに私いいすぎでした英語よくわからないんですサッセンって言って折れてしまうだろうから、すぐ相手に合わせるのではなく自分の信念も強く持つことは異文化の人と交流する上で重要だと思った。染められたくないもの。
でも結局その人たちとは和解して、
君たち英語できてインテリジェントだねとか言ってくれたり、お酒おごってくれたり
それに、その中の一人と今週デート行くことになったしなんだかんだ楽しかった。
なんかちょっと経験値上がったかなみたいなそんな1日。
おわり。
担降りとかオタ卒とか
ジャニオタって担降りしますオタ卒しますって宣言するじゃない?
それで本当に終われるの?って思うわけ。
私の中でオタ卒は完全に健人くんに無関心になった時。
でもそれって宣言したところで完全に無関心にならなくない?
感情ってコントロールできなくない?
抑え込むことはできても抑え込んでいる時点で関心ありまくりじゃない。
でもね、
私の中で好きと無関心の波は常にあってその波がどんどん無関心寄りに近づいているのは感じるの。舞台挨拶に行った時、少年収に行った時、コレジャナイ感がすごかった。
きっと私の中で彼を勝手に神格化していた。
私が脳内で勝手に彼を美化し過ぎていたなって今更だけど気づいた。
彼は本当に私の理想で何から何まですきーと思っていたけど、理想的なのは当たり前。
中島健人という題材に私の理想を練り込んだものを彼自身だと思っていたから。
私は自分の脳内で作り出した健人くんに恋してたなってこの前の少年収で自覚したの。
そのことをはっきり自覚してから、あれほどかっこよく見えていた彼の顔も普通に見えてきて、ナルシストも前は自分を貫いてて好きいって思っていたっけどなぜかネタに見えてきた。
雑誌も写真もすべて意味のなさないガラクタになって、街で広告を見かけても何の感情も湧いてこなくなってしまった。催眠術がとけてしまったみたいに。
そんな自分が少し寂しい。今まであれほど輝いて見えていたものが何も色のないものに見えるのは切ない。
2年前、突然私に舞い降りてきてくれた健人くん。
健人くんの仕事に対する姿勢とか生き方とか、すごい大好きで尊敬してて
この先私は健人くんより好きになれる人なんか出てこないんだろうなって思ってた。
アイドルを職業として真剣に取り組んでくれて常にファンを楽しませてくれて、いい意味で常に予想の斜め上をいくようなことをしてくれて、健人くんのファンでいたら絶対に幸せになれるって確信は今でもある。
でも嫌いになろうって思って嫌いになれないのと同じように、好きになろうって思って好きになれるわけでもない。
これからどうなるか分からないけどとりあえず今は、あのころの熱狂は戻ってこないんだろうなと思ってる。
ああどうしよう、担降りブログみたいになってしまった。
こんなこと言ってるけど
明日もゴチ見るし来月からはツアーも行くよー!
担降りしなければいけない理由ができたとかいうわけでもないから私は自分の感情に任せます!好きな時は好き!無関心な時は無関心、それでいいよね!