つぶやき

お正月に実家に帰省したときちょうど、は◯ちゅうさんの童貞を揶揄したツイートが大炎上していた。NewsPicksでそれを見つけたお父さんは私にこれは彼女が悪いといってきた。その言葉をきっかけに彼女の一連の発言は批難の対象になるべきか否か議論になった。

 

私は、SNSでは発言は自由であるべきだし彼女自身も攻撃の意図があったのではないだから批難するべきでないと主張した。しかし父は、影響力を持っている人が誰かを傷つけるような発言をするべきではないと反論してきた。私は自分の主張は譲らないし、父も父で童貞コンプレックスを抱えている人の気持ちに同情的で(過去に同じコンプレックスを抱えていたのかも?笑)母の夕飯できたよの合図が出るまで議論は続いた。

私はその時、父を納得させるようなロジックをもつことができなかったのが悔しかったから今日はその件について、ちょっと深く書いてみる。

 

 

結論から言うと、私は非難の対象となるべきではないと思っている。Twitterでは自由な発言が認められるべきだ。なぜなら、もともとtwitterは個人がtweet(鳴き声)つまり ‘ひとりごと‘を発信するために使用する事を前提としたものであるからだ。Twitterは唯一、会社や組織などのしがらみがなく個人が自分の発信したいように発信できるツールである。そういう場で、言論を規制するべきではないと私は思う。

’やられている人がいじめだと認識したらそれはいじめだ’、と学校で教わった。今回の童貞を揶揄するような発言もその道理に当てはめて、は◯ちゅうさんを加害者として攻撃している人が多い気がする。私の父の意見もそれに近かった。

しかし私はその考えはそもそものSNSを使う上での前提が違うと思っている。

 

繰り返すがtwitterはひとりごとを自由にいう場なのだ。自分の考えを140文字にして公共の場にぽいっと投げる感覚。そして、Twitterを使用する人は考えや価値観は多様なのが当たり前で一つの事象に対して100人いれば100通りの解釈があることを受け入れなければいけない。確かに、そのツイートの内容によっては傷つく人がいるかもしれない。しかし、’傷つくかもしれない誰か‘を守るために当たり障りのないことばかり発信したところで何か発展はあるのだろうか。

 

私はtwitterの在るべき姿として、個人のひとりごとが問題提起や新たな視点や気づきを与えるべきだと考えている。そして、そこから議論が生まれて世の中がより良い方向に向かうきっかけになればいいのにとも思っている。様々な視点や解釈が受け入れられる社会になれば世界はもっと効率的に回せるのにな。それは過度な期待なのかなあ。