『ヤれなかった記念日』

夜3時に寝て12時に起きて洗顔してまたベットに戻ってぐだぐだする。

そんな怠惰な1日は、どーしようもなくくだらなくてほんっとうにしょーもないものが見たくなる。ひらすらに堕落して、脳みそゆるゆるに、体はでろーんってしたくなる。

 

何も予定のない日曜日、私は板チョコを頬張りながらNetFlixを漁ってとあるドラマにたどり着いた。

 

その名も『やれたかも委員会』

 

漂うB級臭。B級に違いない。私はこれを求めていた。

 

いつも通り3倍速で、一気にドラマを見た。

 

 

くだらなかった。ほんっとうにくだらなかった。

くだらないけど

 

 

共感できた。 

 

 

このドラマは、「ヤれたかもしれないけどヤれなかった記憶」を持つ人々が「やれたかも委員会」にやってきて、”その記憶の日はヤれたかヤれなかったか”を客観的に判断してもらうと言う1話完結の物語。

 

バイトの先輩の家で2人きりになったのに、初めての彼女の家で肩に寄っかかってこられたのに、カラオケボックスでキスされたのに、、。

あの時女の子がサイン出していたかもしれないのに自分はヤれなかった、そもそもあのサインはヤれたのかヤれなかったのか、どうなんだ、わからない、気になる、そんなことを何年も何年も考え続けて悩みに悩んでまた悩む。そんな経験ないだろうか?

 

「やれたかも委員会」に集まる人たちは誰しも、10数年前の”ヤれたかも”の記憶に未だ淡い幻想を抱いていた。

 

 

ヤったより何より、”ヤれたかも”が記憶に残る。

 

こうしていればどうなっていたかといくらでも妄想してしまうし、

なんども反芻してしまう

 

そんなもどかしさと淡いエロスを”ヤれたかも”は秘めている。

 

「ヤれたかも委員会」に足を運んだ30代40代の大人が、噛みしめるように自分の経験を語りだす姿を見て、”ヤれたかも”はまたこれで青春なんだと気づかされた。

 

 

人は学習をする。たくさん失敗を重ねて、いつしか”ヤれたかも”の経験は減って”ヤれた”経験ばかりになってしまうかもしれない。一歩踏み出す勇気がなかった”ヤれたかも”の経験は、大人になるにつれ、減っていくのではないであろうか。

 

そんな”ヤれたかも”の儚さ、希少性、尊さ、に気づかされ、私は胸がいっぱいになった。

 

大人だけど大人でない、未熟な今だからこそする失敗や後悔をもっと大切にしようと思った。

 

”できたかもしれないけどできなかった(やらなかった)記憶”は一生残る。

手に入った物は日常になってしまうが手に入らなかったものは幻想となって永遠に心の額縁にいれられるからだ。

失敗や後悔はマイナスイメージがあって、敬遠されがちだ。しかし30代40代になって振り返ると、それもまた良いの思い出なのかもしれない。

 

 

 

  

 

こんな私にも、強烈に記憶に残る”ヤれたかも”がある。

どうしても酸っぱさが残るけど、これもまた青春の一味だったのかな。